否定文と名詞の格

2024年5月14日

以前の記事で、否定文では直接目的語が生格になると書きました。
たとえば、

  • Я читаю книгу. 「私は本を読みます」
  • Я не читаю книги. 「私は本を読みません」

しかし、否定代名詞の記事では、否定文にもかかわらず直接目的語が対格になっている例をいくつか紹介しました。

  • Я никогда не водил машину. 「私は車を運転したことがありません」
  • Я никогда не видел Млечный Путь. 「私は天の川を見たことがありません」
  • Никто не знает правду. 「誰も真実を知りません」

実は、否定文だからといって必ずしも直接目的語が生格になるわけではないのです。
以下はこの現象に対する管理人の考えです。

生格にはおそらく、存在しないものや存在してほしくないものを表す用法があります。
たとえば、"У меня нет друзей."「私には友だちがいません」のдрузейは存在しないものなので生格になり、"Я боюсь людей."「私は人が怖いです」のлюдейは恐れているもの、つまりは存在してほしくないものなので生格になっています。

一方で、ненави́деть「憎む」は"Я ненави́жу это."のように、対格の目的語をとります。
意味的には存在してほしくないものだから生格になると予想されるところですが、これはおそらく、憎んでいる対象の存在をはっきりと認識していることから、対格の目的語をとると考えられます。

否定文の目的語もこれと同じで、存在するかしないか、あるいは存在を認識しているかどうか、あたりが判断基準になっているのではないでしょうか。

たとえば、生格を用いて"Я не вожу машины."とするのはмашинаの存在を否定しているから不自然で、自分が運転するかどうかにかかわらず車は存在するのだから、対格を用いて"Я не вожу машину."とするのが自然なのだと思われます。

その他いくつか例文を挙げておきます。

  • Я вчера не видел Машу. 「私は昨日マーシャに会いませんでした」(私が会ったかどうかにかかわらずマーシャは存在しているので対格)
  • Я ещё не знаю правду. 「私はまだ真実を知りません」(真実は存在するがまだ知らないだけなので対格)
  • Я не знаю правды. 「私は真実を知りません」(真実など存在しないという立場なので生格)