否定文と名詞の格

2023年11月9日

以前の記事で、否定文では直接目的語が生格になると書きました。
たとえば、

  • Я читаю книгу. 「私は本を読みます」
  • Я не читаю книги. 「私は本を読みません」

しかし、否定代名詞の記事では、否定文にもかかわらず直接目的語が対格になっている例をいくつか紹介しました。

  • Я никогда не водил машину. 「私は車を運転したことがありません」
  • Я никогда не видел Млечный Путь. 「私は天の川を見たことがありません」
  • Никто не знает правду. 「誰も真実を知りません」

実は、否定文だからといって必ずしも直接目的語が生格になるわけではないのです。

管理人はまだロシア語の学習者に過ぎず、この現象を知ったのはつい最近のことです。
YouTubeのコメントで"Я никогда не водила машину."というのを見つけて、それから否定文でも目的語を対格にすることがあると知りました。

この現象についてインターネットで調べてみると、

  • 生格を用いると否定の意味が強くなる
  • 触れることのできるものを表す名詞(本や皿など)は対格にする傾向がある

といった情報を見かけました。

ということは、"не водить машину"でも"не водить машины"でも間違いではないということでしょうか?
試しに、この二つのフレーズをGoogle検索してみました。

フレーズ検索結果の件数
не водить машину13,300件
не водить машины176件

他のフレーズでも試してみました。

フレーズ検索結果の件数
не читать книгу46,300件
не читать книги60,000件

машинаでは対格を用いた表現が圧倒的に頻用されるのに対して、книгаでは対格と生格の間にそこまで大きな差はなく、むしろ生格が優勢と言ってもよさそうです。
ただし、上の例は二つとも女性名詞なので、単数生格ではなく複数対格が使われている例も結果の中に含まれているかもしれません。

以下はこの現象に対する管理人の考えです。
(見当違いだったらすみません)

生格にはおそらく、存在しないものや存在してほしくないものを表す用法があります。
たとえば、"У меня нет друзей."「私には友だちがいません」のдрузейは存在しないものなので生格になり、"Я боюсь людей."「私は人が怖いです」のлюдейは恐れているもの、つまりは存在してほしくないものなので生格になっています。

一方で、ненави́деть「憎む」は"Я ненави́жу это."のように、対格の目的語をとります。
意味的には存在してほしくないものだから生格になると予想されるところですが、これはおそらく、憎んでいる対象の存在をはっきりと認識していることから、対格の目的語をとると考えられます。

否定文の目的語もこれと同じで、存在するかしないか、あるいは存在を認識しているかどうか、あたりが判断基準になっているのではないでしょうか。

たとえば、生格を用いて"Я не вожу машины."とするのはмашинаの存在を否定しているから不自然で、自分が運転するかどうかにかかわらず自分の認識の中に車は存在するのだから、対格を用いて"Я не вожу машину."とするのが自然なのだと思われます。

“Я не читаю книги."の場合はおそらく、「本なんて読まない」(少なくとも自分の認識の中には本は存在しない)というようなニュアンスで、生格を用いると否定の意味が強くなるというのは、このあたりが関係していそうです。
一方の"Я не читаю книгу."の場合はおそらく、「本は読まない」(本はあるけど)というようなニュアンスを表しているのではないでしょうか。

他に試してみたGoogle検索の結果を残しておきます。

フレーズ検索結果の件数
не находить место139件
не находить места2,170件

ちなみに、не находить себе места「強い不安を感じている」という表現があります。

フレーズ検索結果の件数
не слушать музыку42,100件
не слушать музыки299件

その他いくつか例文を挙げておきます。

  • Я вчера не видел Машу. 「私は昨日マーシャに会いませんでした」(マーシャは存在するが自分が昨日会っていないだけなので対格)
  • Я ещё не знаю правду. 「私はまだ真実を知りません」(真実は存在するがまだ見つけられていないだけなので対格)
  • Я не знаю правды. 「私は真実を知りません」(真実など存在しないという立場なので生格)

自分はロシア語話者ではないのでネイティブスピーカーの感覚はわからないし、上で紹介した考えが本当に正しいのかもわかりません。
日本語でもそうですが、理由はないけどなんとなくそういうふうに言う、みたいなことがたぶんどの言語にもあって、それをルール化するのは難しいです。
ロシア語に詳しい方がいればぜひ教えてほしいと思います。


それにしても、何かを知れば知るほど、知らないことがまだまだあると気づきます。
たぶん、無限に広がる世界で地図を作成するみたいなもので、すでに探索して地図を作成してある範囲の外側にはまだ探索できていない未知の領域があったり、誰かが作ってくれた地図を頼りに探索しているとなぜかその地図にはない新しい湖ができていたり、そんな世界で絶えず地図を更新していく作業が勉強なのかな、と思います。

探索中に訪れた村で新しい道具(自分が今まで知らなかった言語、科学理論など)を譲ってもらって、うまく扱えるように練習して、それで探索できる範囲が広がったり、探索効率化のために新たな拠点を作って、そこに知識を集約して、ついでにそこを他の探索者のために開放したり、そんなこともあるのかな、と思います。

自分はそういう作業がとても楽しいと思うので、わからないことがあればとりあえず勉強してみたいと思いますし、クオリティはさておき、時々はこうして勉強したことをまとめて記事を書いています。
たぶん、自分は死ぬまでそんなふうにして生きていくんだろうな、と薄々感じています。

以上、余談でした。